第三ステージの最後の下りが終わったところで、カミーユが一番で下って来なかったから、嫌な予感はしてたのだ。相変わらずのスピードで前を走り去っていったからよく見えなかったけれど、ずいぶんとジャージが痛んでいるように見えた。まさか、まさか、そう祈るようにしているとワスケアルのチームカーがやってきた。スタッフが私をみつけると少し先で止まる。
「、乗って行け。カミーユは落車した」
落車の一言にぞっとして立ちすくんだ。すでにカミーユは町へと入っている。リタイアするほどのケガではないのだろうけれど、それでも、少しくらいの痛みなら無視してレースを続けかねない。そんなカミーユの性格を理解しているだけにリタイアしていないからといって、安心はできないのだ。
「早く」
ワスケアルのスタッフがそう叫ぶなり後部座席のドアを開け、私を引っ張り込むように中に入れた。
「ケガは?! 大丈夫なの?!」
「擦過傷以外は問題ないって本人は言ってるが…」
「擦過傷以外って…!」
「まだわからん。レース終わってからドクターに診てもらわんとな」
スタッフは苦々しく首をふる。カミーユはワスケアルのエースなのだ。小さな町で久しぶりに出た将来を期待されたエースだ。一年前の落車で大きなケガを負って、やっとの復帰戦だったのに。
「でもまだカミーユはあきらめてないぞ。、うつむくな」
「…うん」
ギュッと両手を握りしめる。右手首のミサンガが車の振動でゆれる。カミーユがケガしませんようにと願って作ったミサンガはカミーユもおそろいだ。
ごめん、カミーユ。ご利益なかったね…。
チームカーはスピードを上げ、カミーユの背中を追う。カミーユについて行けるのはわずかな距離だ。山頂のゴール地点には車は乗り入れることができない。少し下の観光客用の駐車場に車を止めて登らなくてはいけないからだ。ナントのチームカーはどうやらまだしばらくついて行くようだったが、ワスケアルのチームカーは先へ行くことにしたらしい。
チームカーに気付いたカミーユはポケットに入れていたウィンドブレーカーを車に投げてよこす。それはボロボロになって所々血もついている。それを手にして泣きそうになるのをこらえた。
「カミーユ!」
窓を開け、身を乗り出して叫ぶ。私の姿を見てカミーユが舌打ちする。それは私がいることに対してではなくて、見せたくない自分の姿のせいだろう。スタッフに渡されたボトルをカミーユに手渡す。カミーユがボトルを握っても私は離さずにいた。これで少しはカミーユの脚を休められる。ルール違反といえば違反だが、多少は目を瞑ってもらえる一種の不文律ってやつだ。
「待ってるから! 山頂で、待ってるから!」
「ああ、待ってろ、一番にゴールしてやる」
ニヤリと不敵に笑って、カミーユはグッとボトルを私の手から引っ張った。手を離すとチームカーはスピードをあげた。みるみるうちにカミーユは小さくなる。しばらく身を乗り出したままだったが、促されて車の中に戻った。私にはボロボロのウィンドブレーカーを抱きしめて祈ることしかできなかった。
チームカーを降りて、山頂ゴール地点へと向かう。ゴール地点に近づけば近づくほどギャラリーが増えていく。その中を縫うようにして進んでいく。歓声が下から徐々に大きくなってくる。先頭が来るのだ。きっと、その中にカミーユはいるはずだ。だから早くゴール地点に向かわなくては。間に合わなかったで許してくれるようなカミーユじゃない。自転車関係で機嫌を損ねると、けっこう派手にすねる。意外にめんどくさいところがあるのだ。そんなところもかわいいんだけど、とふと笑みがもれる。
さらに歓声が大きくなってきた。
何とか他のスタッフたちとゴール地点からすぐのところへ陣取れた時
「先頭が来たぞ!!」
「4人だ!」
「シリルが先頭だ!」
周りが騒然とし出す。
「よし! シリルがカミーユを引いてるぞ!! 完璧だ!」
スタッフは興奮状態ですでにガッツポーズしている。ディレクターもアレアレ!!とこぶしを振り回している。周囲のギャラリーも大興奮で思い思いに声を出している。
そんな中、私はただカミーユを見ていた。ギュッとカミーユのウィンドブレーカーを抱きしめて、涙が出てきそうなのをこらえていた。涙でぼやけて見えなかったなんて言ったら、きっと盛大なため息をついて恨みがましく「バカか」と言われるにきまってる。ちゃんと見なきゃ。カミーユの、最高にかっこいい姿を。
カミーユの息遣いしか聞こえない、そんな錯覚におちいるほどの静寂が一瞬あった。次の瞬間、地鳴りがするほどの歓声に我にかえる。
カミーユがステージ優勝したのだ。
ステージレースにおいて、必ずしもステージ優勝は重要ではない。けれど、それがわかっていても、うれしくて涙がとまらない。ローランとのタイム差とかそんな現実的な話は明日の最終レースまでいくらでもできる。だからこそ、今はステージ優勝を心から喜びたい。
「カミーユ!」
シリルもゴールしてカミーユにはしゃぐようにまとわりついている。私も、私も早くカミーユにおめでとうって言いたい。頑張ってカミーユのいる方へと進もうとするがギャラリーが多くて、またそのギャラリーも優勝者であるカミーユへ意識がいっているので、簡単には進めない。カミーユ、カミーユと叫びながらギャラリーにもみくちゃにされる。押されようとも倒れそうになっても、カミーユのウィンドブレーカーを抱きしめて私はカミーユへと向かう。
ローランと何か言葉を交わしたカミーユはぐるりとギャラリーを見渡した。
「!」
私に気付いたカミーユがヘルメットを外しながらこっちへ向かってくる。近くのギャラリーたちは寄ってくるカミーユにさらに大歓声をあげる。
「カミーユ!」
ギャラリーの間から手を伸ばす。カミーユはその私の手をつかむとグッと引き寄せた。カミーユの目的が私だとわかったらしい周りのギャラリーはないスペースを私のために開けてくれる。こじ開けられたような隙間から引っ張られる。たたらを踏むようにカミーユの元へとたどり着くと同時に抱きしめられた。
「何泣いてんだよ」
「だって、だって」
「一番にゴールするって言っただろう」
「落車したって、ごめんね」
「何だよ、ごめんって」
「ミサンガ、ケガしないでって、効かなかったし」
「パーカ、だからこんくらいですんだんだろ」
私の肩に両腕を乗せるようにして、額を私の額につけて、いつものように不敵に笑う。優勝者なのに悪役みたいな笑顔はカミーユがカミーユたる所以か。その性格もレースも自転車への姿勢も、けっしてスマートじゃないのに、どうしてこんなにもかっこいいんだろう。
口元も落車の時に切ったのだろう。血がにじんでる。その痛々しさが様になっているから不思議だ。そっと傷に手をやると、痛かったのか小さく顔をしかめた。
「消毒しろ」
近づいてくる口元に自分のくちびるを押し当てれば、すぐにカミーユのくちびるが重なった。これじゃあ、消毒にならないじゃないと心の中で毒づきながら、そのくちびるを受け入れる。大歓声の中、周りがあきれるほど長く、私たちはキスをしていた。