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七夕

ざざっと風に笹の葉が揺れる。

見上げた空は西から雲がせまってきていて、その様子は夜にはちょうど雨になるんじゃないだろうかと思わせた。 空を見上げてそんなことを考えればうっかりと彼においていかれそうになって慌ててその背中に声をかける。

「シンちゃん」

伸ばした手でむぎゅっと憎たらしいほどに鍛えられた二の腕の後ろをつまんでやれば、眉をしかめた彼が振り返る。

「遅い」
「…シンちゃんが歩くの早いねん」
「おまえの足が短すぎるねん」

憎まれ口に反論できずに、もうっ、と背中を軽く小突けば、その勢いで彼はまた先を歩き出す。駅前の人ごみを慣れた足で歩く彼についていくのに精一杯で、いい加減不機嫌にもなろうというものだ。 けれど、長年の感か、相性の良さか、全ては彼の計算なのか、本当に不機嫌になる一歩手前で彼は振り向いて手を差し伸べる。この絶妙のタイミングにいつも肩透かしをくらって怒ることを忘れてしまう。

彼に絶対に勝てないと思う瞬間だ。

そうして差し出されたその手に自分の手を乗せるとき、いつもどうしてだかはにかんでしまう。 どんなに心も体も馴れ合ってもこの手を繋ぐ瞬間の気恥ずかしさはなくならない。

初めて、彼と手を繋いだ20数年前からずっと。

私が幼稚園の年中組になったばかりの春だった。隣に引っ越してきた1つ上の男の子。それが彼だった。 近所に同じ幼稚園に通う子がいなかった私はとても嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

「シンちゃん、ようちえん、いっしょにいこ?」

毎朝小さな手を差し出す私を邪魔とも思わず手を繋いで引っ張るように前を歩いてくれた彼。 そんなかわいい朝の習慣は彼の卒園まで約一年続いた。

その後、小中高と特別関係を変えることなく過ごした幼馴染と、お互いの仕事の都合で実家から遠く離れたこの横浜で再会することになるとはお互い思ってもみなかった。

幼馴染として育った環境とは違う生活の中で、慣れた気安さの中に彼に男としての魅力を感じることに時間はかからなかった。

どうしたら幼馴染から脱却できるんだろうかと、いろいろ試しては失敗する日々に、いい加減あきらめたほうがいいのかと思い、連絡を取らないようにした。

何度連絡を取ろうと思って携帯を手にしたか。
何度打ちかけたメールを削除したか。

そんな風に恋焦がれる気持ちをごまかすように日々を過ごして二ヶ月ほどたった。

その日も適当なお付き合いの合コンで飲んで帰ってきた。彼への気持ちをごまかすようにそういう席に出歩くことが多くなったのに、日付が変わる前に私は必ず一人で帰ってきていた。 自暴自棄にやけになれたらいいのにそこまでハメを外すことができなくて、自分の中途半端さに泣きたくなる。

どうにもできない気持ちを抱えて歩く夜道で携帯を出して彼の名前を呼び出してはディスプレイの光が消えるまで何も操作できずにいる。

ふと自宅マンションの前に人影が見えた。
痴漢とかじゃないよね?

一歩近づくごとにはっきりと見えてくるその人は、彼だった。

小柄なその体をマンションの前の植え込みにもたれさせて、腕を組んだままじっと彼が待っていた。

「シンちゃん…」

ほろ酔いの私を一瞥すると彼は何も言わずにそのまま立ち去った。

あぁ、ダメだ、と思った。 漠然とただ、今を逃してはいけないんだと彼の様子に思ったのだ。

待って、とその背中を追いかけて追いかけて。やっとの思いで追いつけば待っていたのは重い沈黙。

普段饒舌な彼に口をつぐまれるととても気まずい。 いつものように怒鳴られ叱られ小突かれる方がどれほどいいか…



低い声で名を呼ばれて、何と小さく聞き返しても、彼は顔を私からそむけたまま、そのまま口をまたつぐんでしまった。

思い切るなら今しかないと、私は、彼に好きだと言った。 たぶん、好きだと言ったと思う。言ったかどうかわからないのはくちびるをふさがれたからだ。 シンちゃんのことが、でふさがれたのか。 シンちゃんのことが好き、でふさがれたのか。 今となっては思い出せない。

それほどに心の芯を震えさせるほどのキスだった。


さらに風はきつく吹き出して、彼は目を細めた。

「もう西の方は降っとんなぁ」
「そうやねぇ」
「1時間もしたらここも来るな。早、家戻ろか」

ぎゅっと彼は遠くの空を見たまま私の手をきつく握った。

ざぁっと、通りの和風カフェが店の入口にディスプレイしていた笹が揺れた。 色とりどりの短冊が書かれた願いを持て余すかのようにくるくると風に弄ばれる。

「…三つ子の魂なんとやらって言われたわ」
「誰に」
「お母さん」
「…何で?」

彼は片眉をあげて少し笑う。私の母をよく知るからこそかもしれない。

「幼稚園のときの七夕で書いた私のお願いごと…叶ってん」
「何や、ブタになれますように、か?」
「誰がブタやの!」
「まぁ、二人分やしな」

私のお腹を手の甲でそっと撫でた彼は嫉妬したくなるほど優しく笑った。


「じゃあ、ちゃんはこれでいいの?」

幼稚園の先生が微笑ましいといわんばかりの目で幼い私に問いかけた。 字の書けない私は先生に代筆してもらったのだ。

全部ひらがなで書かれたものを一生懸命に読んだ。

「おおきくなったらしんちゃんのおよめさんになれますように」

うんと大きく頷いて短冊を高いところに結んでもらった。

「せっかくだから進次くんの隣に結ぼうね」

その時私は彼の願いごとが何かなんてことまでは気にも止めずにただ隣ということが嬉しくて頷いた。

「相思相愛やもんねぇ」

彼と私の短冊を並べて見て笑う先生のその言葉の意味を幼い私がわかるはずもなかった。


200507

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