トッキューがよく使う居酒屋に来たのは偶然じゃない。嶋本さんがいることを知っていて私はここに来ている。もちろん、それは一緒に来た他の同僚は知らない。ちゃんと名目は他にあるのだ。真田さんという―――
「、おまえ、オレに惚れてるんやろ?」
私と嶋本さんのいる店の一角はどこからも死角になる。昔はこの場所は公衆電話が置かれていたのだという。店の喧騒を少しでも避けて電話をできるようにという配慮だったのだろう。携帯電話が当たり前になった今、この場所にはもう電話はない。死角を作る衝立と電話が置かれていた備え付けの台だけだ。
嶋本さんは一歩私に近づいた。いつも私をからかう時と同じにんまりとした顔のようで、目だけが違う。その野生の目におぼれないように、目に力をこめる。それが嶋本さんには睨んでいるように見えているだろう。
「私、真田さんのファンですから」
「嘘つくん、ヘッタやなぁ」
くくっと喉で笑うと、左の肘を私の頭の上につく。右肘はすでに私の左側の壁につかれている。私の顔を覗き込むようにして、嶋本さんは目を開けたまま、私のくちびるをふさいだ。嶋本さんが目を開けたままだとわかるのは、私も開けたままだからだ。まばたきをすることを忘れてしまうくらい、唐突な、キスだ。
強引にキスをしたくせに、嶋本さんのくちびるはちっとも欲を感じない。触れて、少し離れて、触れて、ゆっくりとゆるやかになぞる。まるで私が耐えかねてねだるのを待っているかのように。その目はずっと開けられたまま、上目遣いで私の表情を伺っている。
目を閉じたら負けだ。目を閉じてしまえば、私は嶋本さんを欲しがってしまう。体がきっと、もっともっと、と勝手に反応してしまうだろう。
嶋本さんの視線から逃れられない。ゆるいキスにもっと欲しい、嶋本さんが欲しいと体も心もうずきだす。私の目を見たまま、嶋本さんは少しだけくちびるを離した。触れるか触れないかの距離で動かない。熱っぽい嶋本さんの息だけが私の肌を伝って行く。私は焦れだした自分を隠すために虚勢をはった。
「せ、クハラですよ」
「好きな女にちゅーすんのもセクハラなんや?」
「好きじゃない男からならセクハラでしょう?」
「ほーう…」
嶋本さんは私の言葉に、おもしろいと言うように片眉をあげる。そして、まるで何もなかったかのように体を起こした。それはもう、すがりつきたくなるほどあっさりとした動作だった。嶋本さんは両手を頭の上で組むと、軽く伸びをする。
「ほんまに嘘つくん、下手やな。ま、そこがええんやけど、な」
「嘘なんてついてませんよ」
乱れてもいない髪をなおしながら、私は嶋本さんを見たまま、笑った。くちびるが微かに震えたけれど、それでも笑えたことは成功だ。そんな精一杯の虚勢を嶋本さんは見抜いているくせに、そこにつけ込むことはしない。落とせるぎりぎりで引いて、楽しんでいる。
「いつまでその嘘、つけるんか楽しみやわ」
にやりと笑う嶋本さんの顔に、今、ここで陥落してしまいたい衝動にかられる。でも、ダメだ。絶対にダメだ。嶋本さんは自分の手に落ちてしまったものにはすぐに興味を失う。手に入らないものを願う人だから。他の女たちのように、簡単になびけば、簡単に捨てられてしまうだろう。
だから。
嶋本さんのこのお遊びを本気に変えるまで、私は目を閉じたりしない。
20080707