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ごっこあそび

「うわ」

 この基地の中でそんな格好のシマさんを見る日が来るとは思ってかった私は、思わずだらしなく口をあけて見てしまった。

「うわ、て、なんですかねぇ、さん?」

 むっとしている時のわざとらしい丁寧な口調でシマさんはジロリと私を見た。

「いえ、どうしたんですか?」

 つられて私までもが丁寧な口調になってしまった。ロッカーの内扉の小さな鏡に向かってネクタイと格闘しているシマさんは眉を少しだけ吊り上げて、私を見ると、どうしたもこうしたもないわと苛立たしげに小さくため息をついた。

「お偉いさんのとこに行かんとあかんねや」

 ふぅーと大きく息を吐いて首を左右に回した。制服とはいえネクタイなんて滅多にしないせいだろう。気に入らないのかもう一度といてしゅるしゅると長さを前で合わせた。

 特救隊の正装はある意味あのオレンジのベレーだから、白い制服姿で出るのは本当にかなりの「お偉いさん」のところにちがいない。そういえば、先日の大きな海難救助の功労でずいぶんとお偉いところから表彰されるとかされないとか聞いたような覚えがあった。

「あー、くそ」

 上手くいかないのかついに舌打ちをしてガシガシと頭をかいた。

 まぁ確かに、シマさんなら飲み会で頭に巻くほうが似合ってるかもしれない。いやうっかりそんなこと言ったら、いっそ殺してくださいと思うような目に遭わされること間違いない。この人の前で失言したら最後だということは身に沁みて知っている。

、おまえもなー、ぼけっと見てんと、私がしましょうか、くらい言えんのか」

 ペシっと勢いよくネクタイを鞭のようにして私の頭をはたいた。

「ワタシがしましょうか」

 そんな夢見たいなことしてもいいのかな。好きな人のネクタイをしめるなんて、突然ふってわいたような夢みたいな出来事に私の口調も怪しくなった。けれどシマさんはそんなことを気にすることもなく待ってましたとばかりにニッと笑った。

「頼むわ」

 ほら、と手渡されたネクタイはスルっとした冷たい手触りで、さっきまでシマさんが握っていたところだけがほんのりと温かい。

 さっきまでここをシマさんが握っていた、シマさんのぬくもり。手が触れたわけでもないのに、シマさんの体温を感じて、鼓動がどんどんと早くなっていく。ドキドキと、この音がシマさんに聞こえませんようにと、心の中で神様にお願いする。

 ネクタイを首に回そうと腕あげるとシマさんは少し頭をさげてくれた。そんな些細な動きの1つが私の鼓動を早めていく。

 今、ネクタイと私の腕でシマさんを、とじこめた。

 ネクタイと私の腕でまぁるくできた世界は私のドキドキで埋め尽くされているのに、シマさんはまったくいつもとかわらない様子で気づく素振りすらない。

 あぁ、切ない。

 しゅるりとシマさんの胸の前でネクタイの長さを整えた。

 こんな間近でシマさんを感じることの興奮と緊張が交互に押し寄せてきて手が震えてネクタイがすべってしまう。

 時間がかかりすぎてる気がしなくもないのにシマさんは一言も発しない。不安になって、そっと目をあげると、目がかち合った。

 シマさんの目もいつもの意地悪を含んだ色がなくて、ただまっすぐな目で、覗きみた訓練の時にしか見れないような、そんな真剣な目で、そらせない。

 正面でこんなに近くに向かい合って、目が合うなんて、まるでキスの前のようで。どうしよう、ドキドキがとまらない。トキメキもとまらない。

 なんて一人で入り込んでたら、ロマンチックのかけらもなく、ふんっというシマさんの鼻息で私のドキドキはあっさりと吹っ飛ばされてしまった。

、早、せぇ」
「あ、はいはい」
「はい、は一回」
「はい」

 やっぱり、現実はこんなもんだ。ふうと1つ息を吐いて、気をとりなおしてネクタイをしめた。バカみたいな期待が失せたせいか手の震えも止まっていた。

 うん、悪くないんじゃないですかね。

「はい」

 出来たという合図にポンと手の甲でシマさんの鍛えられた胸を一叩きする。

「ん」

 上着を取り出して、さっとはおり、襟元を調えるとシマさんは確認するようにきゅっとネクタイを触って鏡を覗き込んだ。

 満足したのか振り向いて私を見ると、ニッと笑って親指を立てた。その様子に嬉しくて顔がほころんだ私にシマさんは無情にも言い放った。

「ヘタクソ」

 グッと立てたはずの親指を下に向けて舌を出した。

「…ムカツク」

 ギュっと拳を握った私を横目で見てからからと笑いながら、手にした帽子を人差し指でくるくると回す。

「ウソや、サンキュな」

 回していた帽子をひょいと飛ばすと、それは私の頭の上に乗っかった。大きい帽子は私の目の下まで隠す。視界が閉ざされると他の感覚が敏感になるのか、ふんわり匂ったのはシマさんの髪と同じだと気づく。ジャンプー何使ってるんだろう、なんてこと考えてるとポンと帽子の上に重みを感じた。きっとシマさんの手だろう。

 その重みに、さっき失せたはずのドキドキと宙に浮いたような高揚感がさざなみのように心に広がっていく。

 シマさんは私の頭に手をついて、覗き込むとニッと笑った。いつも私に向ける、意地悪をする前の顔と同じような笑い方で、けれどその目には温かな重みが感じられた。いつもと違うその笑顔に、ただただ見惚れてしまっている間にシマさんは私にちゅっと小さくキスをした。

「ちょっと新婚みたいやったな」

 くくっと喉の奥で笑ってシマさんは帽子を私の頭から自分の頭へと移す。隠されていた私の顔は当然真っ赤で取り繕う暇もない。そんな私の顔を見て、シマさんは満足そうに目を細めた。

「し…新婚って、何、言って…」
「ほら、あともう一個あるやろ、出しなに新婚が言うこと」

 私の抗議とも言えない抗議に全く耳を貸さずに、ほらほらと人差し指で自分を指す。突然のキスと思わせぶりな言葉に、ぐらぐらと揺るがされた心は思考力も奪ってしまって、ただシマさんの言葉に反応することだけしかできなくなった。

「え、と」

 新婚が言うことって何だっけ、お決まりのセリフ、あ、そうだ!!

「ご飯にする、それとも私?」
「違うわボケっ!!それは帰って来たらや!!出しなは、いってらっしゃいとチュウやろが!!」
「わわ、いってらっしゃい」

 勢いに押されてそう言うとシマさんは少し頬をゆるめた後に真面目な顔をして敬帽した。

「いってきます」

 その顔にまた更にバカのように見惚れたなんて絶対シマさんには知られたくないけれど、きっとバレバレなんだろうな。

 ちょうど奥から専門官のシマさんを呼ぶ声が聞こえてシマさんは慌てて帽子をかぶりなおした。
ロッカールームを出ようとして思い出したようにぴたりとその足を止めた。

 専門官のシマさんを呼ぶ声に、今行きますと応えてから、シマさんは私を振り返った。

 両手をズボンのポケットに入れたまま、ちょっと体を反らせてにんまりと笑うと

「帰ってきたら、さっきの言えよ? 

 そう残してロッカールームを後にした。

 専門官の声とバタバタと走って行く足音を霞みがかかったように頭の中で聞いた。取り残された私は最後のシマさんの言葉を思い返す。さっきのって…。帰ってきたらって…。って…!

 そのセリフが頭の中に浮かぶと、うわっと熱が心の中を駆け巡った。

 ご飯にする?それとも私?
 そして…。
 私のその言葉に、シマさんは…いったい何て答えるつもりなの?



200505→20080727改

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