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シュガーコート

 3階休憩室の自販機の調子が悪いよと庶務に連絡が入ったのは朝。きっと仕事前に一服をしようとした営業が気づいたんだろう。すぐに業者に連絡したのに、今日はもう来れないと昼前になって連絡がきた。

 もっと早く連絡してよねー…。

「故障中」と大きく書いた紙とセロハンテープを手にして3階休憩室へと向かった。

 クリーム色に統一された3階休憩室は南向きの壁がすべて窓になっているので降り注ぐ光がとても眩しい。

 その光の先にぼんやりと人の姿が見えた。

 小柄な、けれどたくましい背のその人は…営業3課の鬼チーフ。

 ポケットからチャラっと音をさせて小銭を取り出すと手のひらで必要な小銭をよりわけながら自販機に向かう。

 や、やばいっ!!鬼チーフに怒られる!!

 庶務はこんな仕事もさっさとこなせんのんかー!

 そんな怒鳴り声があまりにも鮮明に頭の中に浮かんで、冷や汗が心なしか背中をつたっていく。

 だけど。
 そんな頭に浮かぶ恐怖映像とは別に、今、目に映るその光景に見惚れているのはどうしてだろう。

 やわらかいひかりの中でうすいピンクのワイシャツがただ歩くだけで、たまにその腕にはめられた時計が光をきつく反射させている、そんな特別かわった光景でもないのに。

 どうしてこんなに目が離せない。

 ちゃりん、がちゃん、ちゃりん、がちゃん

 お金が自販機に落とされていく音にはっと我に返った。

 いけない!

「お…嶋本さん!」

 鬼チーフが飲み物のボタンを押す前に止めなくては、と、口を開いて思わず「鬼チーフ」といいかけたのを慌てて言い直した間に

「ん?」

 と、鬼チーフは振り向きながら、ボタンを押していた。うぃんうぃんと小さくうなった自販機は勢いよくコーヒーをジャーーと吐き出した。

「…え」

 鬼チーフは何が起こったのかすぐに理解できなかったのだろう。しゃがみこんで自販機の商品を取り出す小さな扉を開けて、本来なら紙コップに入ったホットコーヒーがあるところをまじまじとみている。

「コップ切れちゃうやろ?」

 鬼チーフの独り言に私は勢いよく頭を下げた。

「すいません!!」
「え、あ、何」

 私の勢いにさすがの鬼チーフも面食らった。そっと持ってきた「故障中」の紙を見せると、みるみるうちに眉間にシワが刻まれていく。

「…もっと早貼っとけ…」

 くそう、と小さく吐き出して、鬼チーフは私から紙とセロハンテープを取り出すと八つ当たりするように乱暴に自販機に貼り付けた。

「業者は?」
「…週明けです」
「週明け?!アホか、おまえまたいつでもいいですなんてゆるいこと言うたんやろ!」

 鬼チーフは携帯を取り出すと自販機に書かれている番号に電話をかけた。

「あぁ、どうもお世話になってます」

 営業声でしばらくのんきなやり取りをしていた鬼チーフはふいに故障している自販機の話をしだした。話が進むにつれて、にんまりとしてやったりの顔が鬼チーフに浮かんだ。

「競争社会は辛いっすね・・・え、あ、そうっすか、何かムリ言うたみたいで悪いっすね。…はい、じゃぁ、たのんますわ」

 ピッと電話を切ると私に向き直った。

「1時半に来るって」
「…ありがとうございます」

 あざやかな交渉にさすが営業職だなぁなんて感心している私に鬼チーフは時計をちらっと見て口を開いた。

「スタバ行くぞ、おごれよ」
「え…」
「おまえな、ベンダー業者相手するのオレの仕事ちゃうっちゅうねん。労働報酬におごれ」

 チェアにかけていた上着を肩にかけて当然のように言ってのけた鬼チーフはそのままスタスタと休憩室を出て行った。慌てて、その後姿を追いかけて、エレベーターホールで正午のチャイムを聞いた。

、おまえ、昼メシは?弁当か?」

 何度も下向きのボタンをカチャカチャと押す鬼チーフはまるで子供みたいで笑いがこみあげてしまう。さっきまでの仕事のできる男の顔なんてウソのようで。

「何、笑ってんねん…メシは、て聞いてるんや」
「すいません、食堂に行こうと思ってましたけど」
「ほな、スタバでええな。つきあえ」

 チン!とエレベーターが着くと中はすでにお昼に向かう他社や自社の人間でいっぱいで、私が鬼チーフと一緒だということに首をかしげる人はいなかった。

 小柄な体で大きく歩く鬼チーフについていくのが精一杯で店について初めて、自分が財布も何も持っていないことに気がついた。

「あ、ええで、コレあるから」

 と、鬼チーフが取り出したのはスタバのカード…数枚。スタバのカードは入金を繰り返せるので何枚も持っている必要はないんだけど…。とそこまで考えて庶務の私はピンときた。

「あ、それ、販促物でしょ?!」

 あ、ばれた、と鬼チーフは肩をすくめて舌をだした。

「もう、ダメですよ」
「まぁ、まぁ。一応自分の予算から買うたやつやから」

 ひらひらと手をふって悪びれもせずに鬼チーフは私の分も適当に注文を済ませてしまった。鬼チーフは商品を手にすると、置いてくぞ、と店を後にする。会社とは逆方向にどんどんと歩いていく鬼チーフに足早についていく。

「ど、どこいくんですか…!」
「天気ええしなー…ほら、そこや」

 鬼チーフが指差した先は小さな芝生の公園で、中央の噴水が気持ちよさげにきらきらと水をまきあげている。ベンチではすでにお昼を広げているOLの姿もあった。

「特等席が空いてんで!!早来い!」

 鬼チーフは子供みたいに顔を輝かせて、公園の大きな木の下に駆けだした。緑がさわさわと揺れて鬼チーフの薄いピンクのシャツが私を誘うように風になびく。転がるように木の下に寝転んだ鬼チーフは慌てて起き上がって、コーヒーがこぼれていないか確認した。がさがさと袋からコーヒーやサンドイッチを取り出して、上着を私に放り投げるとそのまま鬼チーフは芝生に寝転んだ。

「上着ひいてええで」
「え、そんなのいいですよ!汚れちゃうじゃないですか」
「かまへん、今日はもう内勤だけやし。」

 思いもかけない鬼チーフの優しさにどきんと胸が高鳴る。それでも流石に上着をひくわけにもいかずにそのまま、鬼チーフの前にすわった。芝生は足にちくちくして、確かにひくものはほしいなぁと思ったと同時に、あぁこの人は他にもこうして女の人と芝生でランチとかしてるんだと気がついた。そうでなければ、素足が芝生に触れない自分が気づくはずなんてないだろう。

 カーブを描くようにゆるく上りだしていたあたたかい気持ちが何だか冷たいもので遮られてしまったような気がした。

 寝転んだままサンドイッチをほうばって鬼チーフは目を細めた。

「行儀悪いですよー」
「あほー、こんな気持ちえーことせんでどうすんねん」

 むっくりと起き上がって、あぐらをかくとコーヒーに口をつけた。

「男の人はいいですよねー」
「せやから上着つこたらええって」

 ほら、と横に置いておいた上着を私のひざに乗せた。決して軽いとはいえないスーツの重みに鬼チーフのやさしさを感じて体が固まってしまう。

?」
「え、あ、」
「何や」

 私の様子に鬼チーフは眉をひそめた。

「あ、いえ。このスーツどこのかなって…はは」
「あぁ、イージーオーダーやで、全部」
「えっ」
「サイズ合わへんからなぁ、オレ」
「…高くないんですか」
「直しとかしてもらったらなんやかんやでかわらへんし、安モンよりもモチもええしな」

 仕事への投資や、と事も無げに言い放ってサンドイッチを頬張った。確かに、営業部は成績のいい人ほど小奇麗にスーツを着こなしている。

「そのかわり、家ではジャージにつっかけやで」
「えっ」
「せやから服のサイズ合わへんからな」
「あぁ…」
「ほんで女に騙されたって言うて…振られんねんなぁ」

 ぶつぶつとくそうと呟いたのは最近振られたところなんだろうか。鬼チーフが振られるというこが何だか意外だけれど、確かにこのスーツ姿からジャージになったら夢から覚めるのかもしれない。

 ごろんと寝転がって遂には靴と靴下までも脱いでしまった鬼チーフに、ジャージフィルターをかけてみると、あぁ、家の中でこうして転がってる姿が簡単に想像できてしまった。

「何笑ってんねん」
「いえ…。あの、デートは必ず仕事帰りにだけにしたらいいんじゃないんですか」
「え?」
「で、もう離れられないって相手が思ったくらいで、ジャージを披露したら受け入れてもらえるんじゃないかと思って…」

 私だったら今でもきっとジャージの鬼チーフも受け入れちゃいそうだけど。

 鬼チーフは真顔で私のことをしばらく見つめてから、おなかを抱えて笑い出した。ひとしきり大笑いしてから鬼チーフは起き上がった。芝生の上で体をよじったせいだろう、髪やシャツにたくさん草をつけたままで、それを払い落とそうとふるふると頭をふると、上げた前髪が落ちてきて、見たことがない飾らない鬼チーフが現れてドキリとする。

 そして、鬼チーフは知らない男の人の顔で私をもう一度真顔で見た。

「ほんなら、今日メシ行こか」
「え…」
「せやから、デートは仕事帰りがええねんやろ」

 にんまりと笑うその顔に体中の熱が顔に集まってきたように感じて、頷くのが精一杯だった。



200505 お題(恋する7つのレスキューポケット)「要救助者確保」より再録

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