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ヴァージニティ

 普段飲み食いすると言えば量が多くて安価、騒ごうが脱ごうがお構いなし、そんなところばかりなので、久しぶりにこういうカップル御用達のような店にくるとおもしろくて嶋本は周りを見渡した。

「何、きょろきょろしてんの」
「なぁ、あれ、不倫ちゃうか」
「しーんーじーくーん?」

 確かに不倫っぽいけど指差して言うことじゃないだろうと、嶋本と高校時代からの友人、はため息をついた。嶋本は気にすることなく、にへらっと笑うとオリーブを口に放り込んだ。

「おまえもええかげん不倫は・・・」
「清算しました」
「お、えらい頑張ったやんけ」
「うるさいなぁ」
「おまえも難儀なやつやんなぁ。なんでいっつもえらい道選ぶかな」

 嶋本は不思議で仕方なかった。の恋はわざと選んでいるんじゃないかと思うほどに不倫か二股かけられるかだ。自分に言えばいくらでもフリーの男、それも国家公務員の精鋭を紹介するくらいわけもないことなのに。いつも知らないところで苦しい恋をして泣いている。

 そしてそんな失恋の痛手を癒してやるのはいつも嶋本だった。ただ一緒に浴びるように飲んで愚痴を聞くだけ。頭を軽く叩いたりふらついた足取りに肩を貸したりそういう触れ合いはあってもけっして男女の仲にはならなかった。いや、なれなかった。そこに踏み込んでしまっては、いけないと嶋本は思っていた。

 けれど二人が最初に異性を知ったのはお互いだった。気が合い、タイミングが合い、好奇心が心を支配したまだ10代の制服を着ているころのことだ。たった一度だったけれど決して過ちだったとは嶋本は思っていない。若気の至りとはいえるかもしれないけれど、それでもあの時本気でが好きだった。

 こいつどんなやったっけ。

 こうして飲んでいて、の恋話の愚痴を聞きながら、ふと思い返そうとすることがある。けれど自分もいっぱいいっぱいだったから「した」ということは覚えていてもの温かさや柔らかさは全く残っていなかった。

 今なら、そんな感情が閃光のように頭をよぎった。そう今、を抱いたら何もかも、この指に口に、体すべてで感じることができる。そしてにも自分を感じさせられる自信が芽生えていた。

「シンジ?」

 ぱぱっと目の前で手を振られて、自分の思考に囚われていたことに気づいた。

「私の話、聞いてた?」
「聞いてへんかったわ」
「・・・もう」

 呆れたようにグラスをあおって湿らせたのくちびるに目を奪われる。嶋本は無意識に舌なめずりをした。

 くちびるは奪うんやったっけ、盗むんやったっけ。それってどっちにしても合意ちゃうな。

 自分の考えにくっと自嘲気味に笑うと嶋本は行こか、と立ち上がった。

「え、もう?」

 まだ、目の前の二杯目のグラスは半分残っていて、は驚いてすでに横に立つ嶋本を見あげた。

「善は急げ言うやん」
「は? 何言ってんの」

 どうして急にそんな風に思ったのか嶋本にもわからなかった。ただもう抱きたいという欲求だけが支配していて、後先考えることを放棄したのだ。仮にこれが一夜の過ちになったとして、二度ととこうして会えなくなったとしても、それはその時に考えればいいや、と。

 足早に店を出る嶋本の後をが小走りに追えば、少し先で嶋本はくるりと振り返った。まるでを品定めでもするように、じっくりと、なめるように見た。

「シンジ?」

 先ほどからの嶋本の行動に腑に落ちないは足を止めた。声を張り上げなければ聞こえないほどの距離ではないけれど、触れ合うには遠い距離。微妙な距離は自分たちの関係を如実に表しているようで嶋本は気に入らなかった。

「来いや」

 手をのばし、の手首をつかんだ。思っていたよりも細い。折れそうだと思って、いっそ折ってやれば抵抗しないんじゃないかなんて、物騒なことを考えた。しかしは抵抗することはなかった。そんなにもっと早くに何も考えずに中途半端な微妙な関係を壊してしまえばよかったんじゃないかと嶋本は思った。

「シンジ、今日、変だよ…」

 ギュッとつかまれた手首と嶋本の顔を交互に見て、は眉をひそめた。

「何も、おかしない」
「おかしいよ」

 嶋本の尋常じゃない力には息をのんだ。体中にぞくぞくと寒気が走る。けれど、跳ね上がるような自分の鼓動には薄く笑う。

 嶋本はいつだって、の味方だった。不倫して、相手の妻や同僚から責められたって、嶋本だけは責めなかった。三角関係がもつれて、雨の日に部屋から追い出されたときだって、ずぶ濡れのを部屋に入れて温かいコーヒーを出してくれた。けれど、決して、男女の関係にはならなかった。口ではアホだの言いながらもその目はいつだって、暖かかった。

 しかし、今、嶋本の目はぎらぎらとしていた。昔、たった一度だけ見たことがある、本能の目。その目をはずっと待っていた。おぼつかない足取りでは嶋本に近づいた。

 本当はずっとずっと嶋本に期待していたのだ。初めての、たった一度だけ関係を持ったっきりの嶋本に。まともな恋をせずに、嶋本だけを求めていたのだ。他の男に夢中になっていることに嫉妬してくれたらいい、ボロボロになった自分に同情を向けてくれたらいい。どんな形であれ、自分を抱いてくれたらいい…、無理やり奪って欲しいとすら願っていた。しかし嶋本はなかなか曖昧な友人のボーダーを壊さなかった。もういいかげん、も焦れてきていたところだった。

 今、やっと手に入る。

 そっと嶋本に寄りかかる。嶋本に強く握られた痛みすら、には快感に変わっていく。が自分の腕の中で恍惚とした表情を浮かべていることに嶋本は気づきもしなかった。

 もう、後戻りはできない。今度はこれっきりでは終わらせないから―がギュッと嶋本のシャツを握りしめた。それが合図かのように、嶋本はのくちびるをふさいだ。



20080626

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